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私は歴史が大好きです。三国志も大好きです。中国も好きです。
ネットサーフをしていると、中国三大悪女というキーワードを見ました。
中国三大悪女を見てみると少し知っている人物もいましたので、
中国三大悪女に興味を持ちました。歴史の影に女性ありってどっかで聞きました。
興味を持った事は少し調べてみようという事で、少し綴ります。
稚拙なサイトですが、最後まで御付き合い頂ければ幸いです。
■呂雉
漢の高祖、劉邦の皇后です。劉邦と言えば、『項羽と劉邦』でも知られているので、
知っている人は多いと思います。
恵帝の母で、字は娥姁です。夫・劉邦の死後、皇太后・太皇太后となり、呂后・呂太后とも呼ばれます。
単父の有力者・呂公の娘として生まれました。成人後にまだ、地位の高くない(宿場役人)劉邦に嫁ぎ、
一男一女(恵帝・魯元公主)をもうけました。
秦(始皇帝が建国した)末期動乱期及び楚漢戦争開始直後は、
沛県で舅の劉大公や子供たちとともに夫の留守を守っていました。
この時は劉大公の農業を助け、懸命に子供たちを育てていました。
しかし楚漢戦争が激化し、彭城の戦いで劉邦が項羽に敗北すると、
楚陣営に捕らえられ人質となってしまいます。
これ以降の楚漢戦争は、劉邦の配下である韓信らによる楚陣営各国の切り崩しと平定、
そして太公と呂雉の身柄開放が焦点となり、
項羽側が有利な状態でしたが、膠着状態に陥りました。
しかし、紀元前203年に入ると、韓信らによる楚陣営の切り崩しが成功し、形勢は逆転します。
窮地に陥った項羽は劉邦と講和し、呂雉は太公と共に劉邦の元に帰ることを許されました。
紀元前202年に劉邦は項羽を滅ぼして皇帝となり、呂雉は皇后に立てられました。
しかし、まだ政情は劉邦が自ら反乱の討伐に出向かわなければならないほどに不安定であり、
また宮中では、劉邦の後継者を巡り暗闘が始まっていました。
このような状況の下で、呂皇后は夫の留守を預かって、反乱を企てた韓信を処刑する一方、
自分の実家の呂氏一族、
及び張良(いなければ、劉邦の天下統一がなかったと言われる程の尊敬すべき軍師)らの
重臣の助けを借りて、皇太子となった劉盈の地位安定に力を尽くしました。
劉邦が没して劉盈が即位すると、呂后は皇太后としてその後見にあたりました。
また、自らの地位をより強固なものにする為に、張耳の息子張敖と
元公主の娘(恵帝の姪に当たる)を恵帝の皇后(張皇后)に立てました。
だが、高祖の後継を巡る争いは根深く尾を引いており、恵帝即位後間もなく呂后は、
恵帝の有力なライバルであった高祖の庶子の斉王・劉肥、趙王・劉如意の殺害を企て、
趙王及びその生母・戚氏を殺害した。
この時、呂后は戚氏を奴隷とし、趙王・劉如意殺害後には、戚氏の両手両足を切り落とし、
目玉をくりぬき、薬で耳・声をつぶし、
その後は便所に置いて人彘(人豚)と呼ばせたと言われています。
これに強いショックを受けた恵帝が政務を放棄し、間もなく死去すると、
呂后はその遺児・小帝恭を立て、実家の呂氏一族や陳平・周勃ら建国の元勲たちの協力を得て、
政治の安定を図りました。
しかしこの頃から、各地に諸侯王として配された劉邦の庶子を次々と殺害し、
その後釜に自分の甥たちなど呂氏一族を配置し外戚政治を行い、
自分に反抗的な小帝恭を殺害して小帝弘を立てる等の行動をとり、
劉邦恩顧の元勲達からの反発を買ってしまいます。
また、元勲達も自らの処刑を不安視した為に、ろくに仕事をしなくなった。
呂后自身、このことには気付いていたようで、
甥の呂産らに元勲達の動向に気をつけるように散々言い聞かせ、
更に呂氏一族を中央の兵権を握る重職等に就けて万全を期した後、死去した。
■則天武后
武周期の創始者。唐の高宗の皇后。中国史上唯一の女帝となり、武周を立てた。
武照は利州都督・武士彠と楊夫人の間の次女として雨の降る日に生まれました。
そして武照が生まれて間もない頃に、袁天鋼という名道士が来て武照の相を占い、
人相を見た袁天鋼は必ずや天に昇ると述べたという逸話があります。
これを聞いた武士彠はその場にいた者達にこの事を忘れさせたが、
乳児としての武照の容貌が極めて美しかったこともあり、将来の皇后を期待した武士彠は、
その予言を実現すべく高度な教育を与えて、幼名を媚娘と命名した。
武照が幸せな生活を送ったのは父が死去する8歳まででした。
父の亡き後、媚娘は異母兄弟に虐げられる生活を送ることとなりました。
少女期の武照は、漆黒の長髪・特徴的な切れ長で大きな目・雪のような肌・桃色の唇・
薔薇色の頬・大きな胸・見る者を魅了する媚笑・聡明な頭脳を、
備えていたと史書に記録されています。
14歳で太宗の後宮に入り才人(妃の地位、正五品)となりました。
当初は太宗の寵愛を受けていました。しかし「唐三代にして、女王昌」「李に代わり武が栄える」と
流言があり、武照の聡明さが唐朝に災禍をもたらすことを恐れた太宗は、
次第に武照を疎遠にしていきました。李君羨という武将が「武が栄える」の「武」ではないかと、
疑惑を持たれ処刑された事件があったが、
その処刑でも太宗は武照がいかに疑惑的であろうとも武照と距離を置き続けました。
こうした状況下で李治が武照を見出すことになった。
太宗に殺害されることを恐れた武照は太宗の子である李治を篭絡、
李治は妄信的に武照を寵愛することになる。
この時点で太宗は未だに媚娘の貞操を犯していなかったという噂もありました。
太宗の崩御にともない出家することになりましたが、額に焼印を付け仏尼になることを避け、
女性の道士となり道教寺院で修行することになった。
その頃の宮中では、高宗の皇后であった王皇后と、高宗が寵愛していた蕭淑妃が対立し、
皇后は高宗の寵愛を蕭淑妃から逸らす為、高宗に武照の入宮を推薦した。
武照が昭儀(後宮における上から5番目の地位)として後宮に入宮すると、
高宗の寵愛は王皇后の狙い通り蕭淑妃から逸れましたが、
王皇后もまた遠ざけられるようになりました。
655年6月、王皇后とその母・柳氏は祈祷師に厭勝の術をさせ、武照を呪い殺そうとした。
この企みは高宗の逆鱗に触れ、柳氏を宮中から追放しただけでなく、
それまで昭儀だった武照を新たに設けた宸妃(皇后に次ぐ地位)にさせようとしましたが、
宰相韓瑗と來濟の反対で実現はしませんでした。
やがて、中書舎人李義府などの人間が高宗が皇后を廃して、
武照を擁立しようとしているとの知らせを入手し、許敬宗・崔義玄・袁公瑜が結託して、
立て続けに高宗に武照を皇后にするよう上奏文を送りました。
上奏文を読んだ高宗は多くの者が支持していると思い込み、再びこの思いを起こし始めました。
その後、高宗は王皇后を廃し武照を皇后に立てる事について重臣に下問した。
この時の朝廷の主な人間は
太宗の皇后の兄である長孫無忌、
太宗に信任されて常に直言をしていた宰相の褚遂良、
高祖李淵と同じ北周八柱国出身の于志寧、
太宗の下で突厥討伐などに戦功を挙げた李勣の4人でした。
長孫無忌と褚遂良は反対し、于志寧は賛成も反対も言わず、李勣はこの会議には欠席していた。
その後に高宗が李勣に下問したところ立后が内廷(皇帝の私事)の件であり、
外廷(官僚)が容喙すべき問題でないと返答し立后の方針が決定されました。
後世の史家はこの李勣の返答が武則天の専横を生んだとして非難しています。
10月13日に高宗は李勣などの重臣の下で、
「”陰謀下毒”の罪名により王皇后と蕭淑妃を廃し庶民とし投獄する。
彼女らの父母兄弟等も官位を剥奪し嶺南に流す」という詔書を発布した。
その7日後、高宗は再び詔書を発布し武照を皇后とし、
同時に強硬に反対していた褚遂良を潭州都督へ左遷した。
11月初旬、皇后になった武則天は、
監禁されていた王氏(前皇后)・蕭氏(前淑妃)を棍杖で百叩きにした後、
生き返らないように四肢切断の上、「骨まで酔わせてやる」と言って酒壷に投げ込ませました。
王と蕭は酒壷の中で数日間泣き叫んだ後絶命したといいます。
更に遺族の姓を侮蔑的な意味を込めた字である「蟒」と「梟」に改称させました。
蕭氏は死の間際に、武則天が生まれ変わったら鼠になり、
自身は猫に生まれ変わって食い殺してやると呪いながら死んだとされ、
後年の武則天は宮中で猫を飼うのを禁じたとされました。
なお、武則天のこの極刑は彼女の独創によるものではないとされています。
皇后となった武則天は病気がちな高宗に代わり垂簾政治を行いました。
初唐は隋と同じく基本的には貴族政治であり、関隴貴族集団と呼ばれる貴族たちが、
権力を握っていました。隋代から科挙は行われていましたが、この頃の科挙官僚は、
低い役職にしか登用されず、科挙による人材登用とそれによる国政運営には限界がありました。
武則天は貴族政治を嫌い、新しい人材を積極的に登用しました。
武則天はただ単に低い身分に主眼を置いたのではなく、
その登用には才能と忠誠を重視しました。
外交も積極的に行い、660年には新羅の要請を受け入れ百済討伐の軍を起こしました。
百済を滅ぼした後の日本と百済の遺臣連合軍との白村江の闘いにも勝利し、
5年後には高句麗を滅ぼし、満州地方の安定を実現しました。
690年、ついに武則天は自ら帝位につき、国号を周年、自らを聖神皇帝と称し、天授と改元しました。
武則天は悪女と呼ばれましたが、政治手腕はすばらしかったようです。
■西太后
清の咸豊帝妃です。出生地は不明です。
1852年、数え17歳の時に、
3年ごとに紫禁城で行われる后妃選定面接試験「選秀女」を受けて合格。
翌年、18歳で咸豊帝の後宮に入り、「蘭貴人」となりました。
1856年に、咸豊帝の長男(愛新覚羅載淳)を産み、その功績により、懿貴妃に昇進しました。
1861年に咸豊帝は崩御しました。その後、政治の実権をめぐり激しい争いがありましたが、
クーデターを起こし権力を掌握をしました。
北京帰還後載淳は同治帝と即位し、
皇后鈕祜禄氏は慈安皇太后、懿貴妃は慈禧皇太后となり、
慈安太后は紫禁城の東の宮殿に住んだ東太后、
慈禧太后は西の宮殿に住んだため西太后と呼ばれた。
当初は東太后と西太后が同治帝の後見として政治を行っていましたが、
東太后は政治に関心がなく、実質的には西太后と恭親王の二頭政治でした。
同治帝は子供を残さずに死去したため、
後継問題が持ち上がった。通常、皇位継承は同世代間では行わないことになっていました。
しかし、自身の権力低下を恐れた西太后は、その通例を破り、
他の皇帝候補者よりも血縁の近い妹の子・載湉を光緒帝として即位させました。
そして再度東太后と共に垂簾聴政を行い、権力の中枢に居続けた。
■最後に
他のページに比べて長くなり、西太后はかなり省略していまいました。
後々に、付け足していきたいと思います。
悪女と呼ばれた人達ですが、その時代では当たり前ではなかったかと思いました。
また、政治手腕もすばらしく一言で悪女というのはどうでしょうか。
自分の障害は徹底的に潰すという気持ちは今の政治家にはないものかもしれません。
低迷の日本、これからどうなっていくのでしょうか?
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